井関の歴史

HISTORY OF COMPANY

1926年(大正15年)8月 愛媛県で創立した
当社の歴史を、
当時のエピソードや写真と
ともに振り返りながらご紹介します。

出発挑戦

創業者・井関邦三郎は、1926年(大正15年)、家業であった農業の経験から「農家を過酷な労働から解放したい」という熱い想いのもと愛媛県松山市に「井関農具商会」を創立し、全自動籾摺り機の販売を開始しました。これが現在に続く井関グループの歴史のはじまりです。創業者の想いは、現在も井関のDNAとして連綿と受け継がれています。

1926
1926年(大正15年)

井関邦三郎が愛媛県松山市新玉町に「井関農具商会」を創立

1930
1935年(昭和10年)

邦三郎、大阪商船「みどり丸」が瀬戸内海で衝突沈没したが、奇跡的に助かる

1936年(昭和11年)

井関農機株式会社を設立

スリーダイヤと社章の制定

1937年(昭和12年)

ヰセキ式籾摺り機シリーズ完成

1938年(昭和13年)

全国ヰセキ会を発足
自動脱穀機の生産開始

1939年(昭和14年)

第一工場内に私立井関農機青年学校を設立

1940
1940年(昭和15年)

自動脱穀機の送風力自動調整装置を発明し特許を取得
耕うん機「ロータリ式1号R型」が完成

1941年(昭和16年)

第一工場内に井関農機技能養成所を開設

発明高度成長

数々の農業機械の開発と稲作機械化一貫体系を確立し、農業の機械化・近代化への貢献を通して、戦後の食料増産・高度経済成長を支えてきました。
急速に拡大する需要に対応するため、全国に販売拠点を広げていきました。

1945
1945年(昭和20年)

空襲により建物・設備一切を焼失。その後社宅工場建設をはじめ復興に着手

1946年(昭和21年)

愛媛県松山市八代町に本社および八代町工場完成
大手町工場跡地に鋳造工場を開設し、鋳造を開始

1948年(昭和23年)

当社初の水冷石油エンジン生産開始

1949年(昭和24年)

熊本県熊本市健軍町に熊本工場を新設

1950
1956年(昭和31年)

創立30周年記念式典を挙行
人力結束機(R1A型)動力刈取機(R2B)を発表

1960
1961年(昭和36年)

東京証券取引所に株式を上場
トラクタの生産開始
邦栄工業株式会社(旧:井関邦栄製造所)を設立
株式会社新潟井関製作所(現:井関新潟製造所)を設立

愛媛井関販売株式会社、群馬ヰセキ販売株式会社(現:連結子会社)、南信ヰセキ販売株式会社、茨城ヰセキ販売株式会社、栃木ヰセキ販売株式会社、札幌ヰセキ販売株式会社を設立

1962年(昭和37年)

香川ヰセキ販売株式会社を設立

1963年(昭和38年)

ポルシェ・ディーゼル社とトラクタの技術提携契約を締結

1964年(昭和39年)

管理機型耕うん機の生産開始

1965年(昭和40年)

動力稲刈結束機の生産開始
乗用耕うん機の生産開始

1967年(昭和42年)

自脱型コンバインの生産開始

田植機の生産開始

バインダRB50の生産開始。田植機、コンバイン、トラクタと合わせて稲作機械化一貫体系を確立
イヴァン・ベアル社と代理店契約を締結
新社是の制定
千葉ヰセキ販売株式会社を設立

1968年(昭和43年)

新潟ヰセキ販売株式会社を設立、高知ヰセキ販売株式会社に出資

1969年(昭和44年)

松山市馬木町に松山工場を新設(現:株式会社ISEKI M&D(松山))
東京支社を本社事務所と改称
京滋ヰセキ販売株式会社を設立

課題・ニーズ
  • 戦後の食料増産ニーズ
価値
  • 農業の機械化による労働力低減・生産性向上

海外展開

事業拡大に向け、海外への展開を進めていきました。
公園・園庭整備や自家菜園の管理を主な用途とする北米・欧州の小型トラクタ市場へ販売推進し、現在の景観整備事業がスタートしました。アジアでは販売網を形成し、グローバルに展開し始めました。

1970
1970年代(昭和45年以降)

韓国、台湾、中国向けPFシリーズ輸出
インドネシアルタン社へ輸出開始。他東南アジア諸国へも輸出

1970年(昭和45年)

乗用コンバインの生産開始
マット苗用田植機の生産開始
水冷ディーゼルエンジン搭載トラクタの生産開始
熊本工場内に井関農機株式会社高等職業訓練校を開設
埼玉ヰセキ販売株式会社を設立

1971年(昭和46年)

ベルギー・ブラッセルにヨーロッパヰセキ株式会社を設立

田植機の代名詞「さなえ」(PF20)の誕生

1972年(昭和47年)

中国との技術交流実施
業界初の全面4条刈コンバイン(HD2000型)の生産開始
松山工場(和気)を増設、本社を同所に移転
海外事業部を営業本部貿易部に改組

1973年(昭和48年)

松山工場和気地区内に松山事務所を新設
伊奈村に茨城工場を開設

1974年(昭和49年)

国東洋物産企業と耕うん機(KL781型)の技術提携契約を締結
アジア向けにコンバイン(HD50型)を初輸出

1975年(昭和50年)

創立50周年記念式典を開催

1976年(昭和51年)

欧州向けトラクタ(TX1300)出荷開始
(同年、アメリカ、ハワイ、インドネシアにも出荷)

韓国向けにトラクタ(TS2210)を初輸出
無人化コンバインの試作機(HD1500型)完成

1977年(昭和52年)

北米FMC社とトラクタをOEM契約を締結し輸出開始
貿易部を改組し海外事業部を発足
茨城県稲敷郡阿見町に茨城工場を移転
旧茨城工場跡に中央研修所(現:ISEKIグローバルトレーニングセンター)を開設

1978年(昭和53年)

大型トラクタ(T5000・6500型)の生産開始
乗用田植機(PL620・820型)の生産開始
揺動式籾摺り機(MS型)の生産開始
乾燥機(GL・GM型)の生産開始
商号の英文表示をISEKI&CO.,LTD.に変更
三重ヰセキ販売株式会社(現:連結子会社)、岐阜ヰセキ販売株式会社、愛知ヰセキ販売株式会社(株式会社ヰセキ東海)を設立

1980
1980年(昭和55年)

水冷ディーゼルエンジンの生産開始
松山工場構内に展示館(現:ISEKI Dream Gallery)開館

1982年(昭和57年)

愛媛県伊予郡砥部町に技術部を移転

1983年(昭和58年)

業界初の自動選別機ポリメイト(LT180)を販売
コイン精米機(CP型)発表

1984年(昭和59年)

台湾向けに乗用田植機(PL820型)を初輸出
回転式籾摺り機(MX300型)の生産開始
エヒメ流通株式会社(現:株式会社井関物流:連結子会社)を買収

課題・ニーズ
  • 高度経済成長に伴う農業就業人口の減少
  • 重工業化の高まり
  • 日系企業の海外展開の加速
価値
  • 稲作機械化一貫体系の確立による生産性向上
  • 農業機械の大型化・多様化による日本の経済発展への寄与

営農提案・
サポート強化

これまで培ってきた営農技術・ノウハウを活かした営農提案・サポートの強化を図り、農業の生産性向上や食の安心・安全に資する新しい農業の価値を提供しました。
営農提案・サポート力は、現在の井関グループの競争優位の源泉となっています。

1985
1985年(昭和60年)

B系水冷ディーゼルエンジンの生産開始
創立60周年記念ヰセキ全国大会開催

1986年(昭和61年)

ヰセキUK(株)(ISEKI UK.LTD.)を設立

1987年(昭和62年)

業界初、ロータリー植込み杆搭載PAシリーズを発表
台湾向けにトラクタ(TL2700型)初輸出
井関グループの目指す将来ビジョン(井関ビジョン)を発表

1988年(昭和63年)

欧州向け乗用モーア(SGシリーズ)の初出荷
業界初の全自動野菜移植機(PV100型)を販売開始

1990
1990年(平成2年)

第一回技術研究発表会を開催
田植機「さなえ」が生産開始以来、生産100万台を達成

1991年(平成3年)

MF(Massey Ferguson)社へトラクタ(TA355、TA305をベースに北米仕様に改良した二型式)をOEM供給開始

1992年(平成4年)

新旋回方式(4WS)を採用した新ジャンルの乗用管理機を販売開始
東中国地区2販売会社を合併し、株式会社ヰセキ東中国を設立

1993年(平成5年)

ISEKIのIをシンボル化した商品用シンボルマークが決定

農業試験研究一世紀記念会会長賞受賞(受賞内容:実用的な自脱コンバインの開発と普及)
トラクタ「ジアス」シリーズ発表
東北地区販売会社を合併し、株式会社ヰセキ東北(現:連結子会社)を設立
九州地区3販売会社を合併し、株式会社ヰセキ九州(現:連結子会社)を設立
本社事務所を東京都荒川区西日暮里に移転
茨城工場を松山工場に統合

1994年(平成6年)

北海道地区3販売会社を合併し、株式会社ヰセキ北海道(現:連結子会社)を設立
西中国地区3販売会社を合併し、株式会社ヰセキ西中国を設立
株式会社ヰセキ九州が株式会社西九州ヰセキを合併
富友株式会社が関連会社2社を合併し、アイセック株式会社に商号変更(現:株式会社ISEKIトータルライフサービス)

1995年(平成7年)

大規模農業に対応する高出力高耐久高能率コンバインHJを販売

株式会社箕輪ヰセキを設立、株式会社ヰセキ九州が株式会社南九州ヰセキを合併

1996年(平成8年)

第一回さなえ全国子ども図画コンクール

茨城県稲敷郡阿見町に関東センターを設置(現:茨城センター)
北海道常呂町の開基100年を記念し、BIG-Tが岐阜県から北海道の岐阜まで1600kmの道のりを走破

1997年(平成9年)

北陸地区2販売会社を合併し、株式会社ヰセキ北陸を設立
小型農機販売会社 株式会社アグリップ(現:株式会社ISEKIアグリ)を設立

1999年(平成11年)

当社独自の排出機構「ズームオーガ」を搭載したHVシリーズを販売

「37株疎植」に対応した田植機PAシリーズ(L型)を販売

2000
2000年(平成12年)

デイーゼルエンジン50万台突破
近畿地区2販売会社を合併し、株式会社ヰセキ近畿を設立

2001年(平成13年)

製造部門の分社により、株式会社井関松山製造所、株式会社井関熊本製造所を設立
(現:株式会社ISEKI M&D)
中国地区2販売会社を合併し、株式会社ヰセキ中国を設立、茨城ヰセキ販売株式会社を設立
株式会社ヰセキクレジットが連結子会社2社を合併し、アイセック株式会社に商号変更

2002年(平成14年)

北米向けにはじめてとなるサブコンパクトトラクタ(MFGC2300)を開発

2003年(平成15年)

中国江蘇省に井関農機(常州)有限公司を設立
三間町に井関邦三郎記念館を開館
四国地区3販売会社を合併し、株式会社ヰセキ四国を設立

2004年(平成16年)

オート変速トラクタジアスATを販売開始

2005年(平成17年)

タイ・バンコクに駐在員事務所を開設
初の中国向け専用設計の自脱型コンバインを中国の井関農機(常州)有限公司にて本格生産
日本政策投資銀行環境格付けを取得(農業機械業界適応第一号)

2007年(平成19年)

お客さまに満足いただける商品と情報を提供し信頼関係を強固にするはつらつ農業キャンペーン開始

株式会社ヰセキ東海が岐阜ヰセキ販売株式会社を合併

2008年(平成20年)

茨城ヰセキ販売株式会社が関東地区3販売会社を合併し、株式会社ヰセキ関東に商号変更
新潟ヰセキ販売株式会社が長野ヰセキ株式会社を合併し、株式会社ヰセキ信越に商号変更
株式会社ヰセキ近畿が京滋ヰセキ販売株式会社を合併し、株式会社ヰセキ関西に商号変更

2009年(平成21年)

業界初 7条刈コンバインJapan販売開始

電動ミニ耕うん機「エレ菜」を販売開始

アイセック株式会社が、井関建設株式会社を合併
トラクターで東北一周(FOOD ACTION NIPPON 応援隊イベント)

課題・ニーズ
  • 農業従事者の減少・高齢化の加速
  • 食料自給率の向上
  • 世界人口増加に伴う食料増産ニーズ
価値
  • 国内外の地域にあった農業機械の提供による農業生産性向上と景観整備保全
  • 営農提案・サポートによる新しい農業価値の提供

グローバル展開加速 / サステナビリティ推進

グローバル生産拠点として設立したPT.井関インドネシアを皮切りに、タイ、フランス、ドイツなどでグローバル展開を加速させました。
国内市場では先端技術を活用したスマート農業や環境保全型農業の推進で、農業の超省力化・高収益化に貢献しています。

2010
2010年(平成22年)

創立85周年 「夢ある農業応援団!ISEKI」をキックオフ

新ジャンルのコンバイン(HFC433型)販売開始
当社独自の技術に使用する「オンリー・アイ」ロゴマークを展開

「疎植営農指導員制度」の設置
夢ある農業応援プロジェクト推進部発足

2011年(平成23年)

中国湖北省に東風井関農業機械(湖北)有限公司を設立

「エコ商品認定制度」の運用開始
松山市パークサポーター制度に認定

2012年(平成24年)

インドネシアにPT.井関インドネシアを設立

電動トラクタ試験走行公開(愛媛県、愛媛大学との共同研究)

2013年(平成25年)

愛媛県松山市馬木町にITTC(ISEKIテクニカルトレーニングセンター)を設立

タイにISEKI SALES(THAILAND)CO.,Ltd.を設立(現:IST Farm Machinery CO,Ltd.)
株式会社井関重信製作所(孫会社)を設立
夢ある農業女子応援プロジェクト開始

2014年(平成26年)

フランス販売代理店 Yvan Beal S.A.S、YB Holding S.A.Sの子会社化(現:ISEKIフランス社)
PT.井関インドネシア量産開始
井関農機(常州)有限公司を関連会社東風井関農業機械有限公司へ事業統合
アグリヒーロー応援プロジェクト始動
ISEKI Dream Galleryをリニューアルオープン
ISEKI Dream Gallery KUMAMOTOをリニューアルオープン

2015年(平成27年)

茨城県つくばみらい市に、夢ある農業総合研究所を設立

創立90周年記念ヰセキ全国表彰大会開催
第1回井関グループ全社技能コンクールを開催
農業女子プロジェクトの一環としてトラクタ「しろプチ」発表
ISEKI Dream Gallery NIIGATAを設立

2016年(平成28年)

土壌センサ搭載型可変施肥田植機(NP8型)を販売開始。ロボット大賞優秀賞を受賞

愛媛県伊予郡砥部町にIETC(設計基本技術トレーニングセンター)を設立

タイにISEKI(THAILAND)CO.,Ltd.(ISTファームマシナリーに統合)を設立
自脱型コンバインフロンティア誕生50周年
熊本地震の影響で停止していた熊本製造所の生産再開、ヰセキ九州営業活動再開
農業女子プロジェクトの一環として耕うん機「ちょこプチ」発表

2017年(平成29年)

さらなるグローバル化に向けて中央研修所を拡大発展させ、IGTC(ISEKIグローバルトレーニングセンター)を開設

農業女子プロジェクトの一環として歩行型草刈り機「プチもあ」を発表
井関グループOB会(井心会)を発足
つくばみらい事業所本館展示フロア(野菜作一貫体系)リニューアル
ヤンマー社と国内農業機械製品の開発・生産分野における協業拡大

2018年(平成30年)

インドTAFE社と技術・業務提携
井関松山製造所が井関邦栄製造所を合併
ISEKI France S.A.SがISEKI France Holding S.A.Sを合併
第一回サービス技能コンクール・サポート提案成果発表大会を開催
アグコ社主催の北米サプライヤーデイが開催されアグコパートナー賞を受賞
ウォーターセル社と協業を開始。農機データ管理システム「ISEKIアグリサポート」と営農支援ツール「アグリノート」のデータを連携

2019年(平成31年/令和元年)

G20新潟農業大臣会合に参加
株式会社ヰセキ関東が株式会社ヰセキ信越を合併し、株式会社ヰセキ関東甲信越(現:連結子会社)に商号変更
株式会社ヰセキ東海が株式会社ヰセキ関西を合併し、株式会社ヰセキ関西中部に商号変更

2020
2020年(令和2年)

タイ販売会社IST Farm Machinery CO,Ltd.を子会社化
株式会社ヰセキ中国が株式会社ヰセキ四国を合併し、株式会社ヰセキ中四国(現:連結子会社)に商号変更

2021年(令和3年)

営農ソリューション・ポータルサイト「Amoni(エーモニー)」公開
有機米デザイン株式会社(現:NEWGREEN)と業務提携を締結
グリーンイノベーション室を新設
長期ビジョン「『食と農と大地』のソリューションカンパニー」の策定、基本理念の見直し
株式会社ヰセキ関西中部が株式会社ヰセキ北陸を合併(現:連結子会社)

2022年(令和4年)

ドイツ販売代理店Iseki-Maschinen GmbHを子会社化
井関グループ環境ビジョン策定・環境基本方針見直し

有機米デザイン株式会社へ資本業務提携を締結
TCFD提言への賛同表明
電動モーア(SXGE2型)発表

2023年(令和5年)

アイガモロボ(自動抑草ロボット)販売開始
井関松山製造所(現:ISEKI M&D松山)にコージェネレーションシステムを導入

2024年(令和6年)

井関松山製造所が、井関熊本製造所を合併し、株式会社ISEKI M&Dに商号変更
ウォーターセル社と資本業務提携を締結

2025年(令和7年)

株式会社ヰセキ関西中部が国内広域販売会社5社および三重ヰセキ販売会社を合併し、株式会社ISEKI Japanに商号変更
創立100周年を迎える

課題・ニーズ
  • 食料安全保障の強化
  • 農業の大規模化に伴う生産性向上、農作物の付加価値化
  • 自然災害・気候変動対応の高まり
  • 環境対応の高まり、脱炭素社会実現への貢献
価値
  • 省力化・無人化・データ活用による農業の生産性向上
  • 環境保全型農業の推進や電動化等によるCO2排出量の削減
未来への挑戦時代

2025

次の100年へ向けて

食と農と大地の未来はこちら
  • episode1

    井関農具商会の創立

    写真1:創業者 井関邦三郎、写真2:井関農具商会設立、
    写真3:全自動籾摺り機C型、写真4:全自動籾摺りの略図

    農業を家業とする家に生まれた邦三郎ですが、体力的にも性格的にも農業には向かないと結論付け、全財産を売り払いその金を資本に何か商売をはじめることを決意しました。
    そうした状況下で大野商店(現:大野農具製作所)が生産販売していた「大野式中耕除草機」と出会います。草取りのつらさを身をもって体感していた邦三郎は、この「大野式中耕除草機」の特約販売を始め、後に生産を始めることにしました。大野商店の了解を得ると、ただちに同店に住み込み、1か月余り作り方を見習いながら工場開設の準備に取り掛かりました。
    まずは、個人営業の「井関農具製作所」を1924年(大正13年)に創業。その後、愛媛県三間村を離れて松山市に進出することを決意し、井関農具製作所を解散、松山市新玉町に「井関農具商会」を創立しました。創立後第一号として生産された籾摺り機は、山本式自動選別機に岩田式籾はぎ機を取り付けたもので「全自動籾摺機」と名付けられ、機体を赤く塗っていたため「赤い機械」と呼ばれ、評判がよく初年度は36台を生産販売し、年を追う毎に100台、150台と伸びていきました。
    これをスタートに邦三郎は、手作業や畜力を用いた過酷な農作業を機械化によって省力化し、農業のさらなる発展に努めました。「ええもんをつくるんやぞ」と、お客さまに喜ばれる商品を提供することにこだわり続けた創業者の想いは、今もなお「井関の精神」として連綿と受け継がれています。

  • episode2

    新生「ヰセキ」のスタート

    本社・第一工場内配置図

    邦三郎は1936年(昭和11年)3月20日「井関農機株式会社」を設立し、第一(松山市湊町)、第二・第三(同大手町)工場を開設。主要製品は、籾摺り機、麦摺り機で、このときから当社は各製品に「ヰセキ式」の名称を使用することになり、新生「ヰセキ」がスタートしました。
    来賓、全国特約店関係者、従業員代表ら約200名を招待して開催された創立大祝賀会で挨拶に立った邦三郎は会社設立の経緯を説明、今後の方針を明らかにして「他より優れた商品を開発生産し、あくまでも積極的に邁進する」ことを約束しました。
    なお、旧井関製作所時代(第一工場のみ)と比較すると、新たに第二・第三工場を加えて戦力は倍増、職種も充実し、生産体制が整いました。もはや町工場の域を脱し、籾摺り機メーカーとして業界一流の業態となりました。

  • episode3

    スリーダイヤと社章の制定

    写真1:社章、写真2:スリーダイヤ

    当社は、「岩田式籾はぎ機」や「ヨシダ式籾摺り機」などの名称で生産販売していましたが、井関農機の設立にあたり「ヰセキ式」という新ブランドをもちました。そのような中、農林省主催の動力籾摺り機比較審査の結果が発表され、ヨシダ式籾摺り機が最高位の「優位」に入選しました。「井関農機の技術陣がつくったのであるから、ヰセキ式にも『優位入選』と表示してもよい」と認められ、「『ヰセキ式』籾摺り機」は、日本最高級品のお墨付きを掲げて、晴れの旗揚げをしました。1926年の創立後10年を経て初の自社ブランド展開です。また、井関農機の設立にあたり、新生「ヰセキ」結束のシンボルとしてスリーダイヤマークと社章を制定しました。このスリーダイヤは「和」と「信頼」と「前進」を表しています。

  • 牛による除草

  • 脱穀の様子

  • 当時の集合写真

  • 井関農具商会

  • 沈没時刻で止まっている邦三郎保持の時計

  • ヰセキ式籾摺り機

  • 私立井関農機青年学校

  • 耕うん機ロータリ式1号R型

  • episode4

    富士山登頂に成功したトラクタ「TB20型」

    写真1:富士山登頂に成功したトラクタ「TB20型」、
    写真2:富士山登頂記念写真

    1964年(昭和39年)にTB15型の生産を開始し、翌1965年(昭和40年)に本格水田作業用としてトラクタ「TB20型」の生産販売を開始しました。機能、スタイルなどポルシェトラクタの技術を応用しており、けん引、ロータリー、代かき、管理、収穫などあらゆる作業が可能であるとして、多くの方にTBファンとなっていただきました。
    同型機は販売当時から性能の高さが注目され、それが広く認められたのは1966年(昭和41年)に行われた秋田県八郎潟干拓地でのトラクタ性能テストで、11社17機種が参加し、そのほとんどが輸入大型機でした。
    テスト地は干拓後間もない超湿田であったため、出品機の大半が沈没して身動きが取れずテスト不能に陥った中、当社の「TB20型」のみがテストに合格し関係者を驚かせるとともに、国産トラクタとしては抜群の性能を備えたトラクタとして評判を高めました。
    さらに翌1967年(昭和42年)に京都大学農学部トラクタ研究会のメンバーが「高所におけるエンジン性能」「傾斜角と走行性の関係」を研究するためにTB20型を使用して富士山登頂を故障なく成功させたことで、同機の性能の高さが再評価されました。

    TB20型トラクタの詳細はこちら

  • episode5

    世界初の量産自脱型コンバイン「HD50型」

    写真1:世界初の量産自脱型コンバイン「HD50型」、
    写真2:作業風景

    当社は自動脱穀機と刈取機では他社を上回る経験と技術を持っていました。1966年(昭和41年)この自動脱穀機に刈取機の機能を結合した世界でも類のない当社オリジナルの「自脱型コンバイン」を開発しました。翌1967年(昭和42年)には、世界初の量産自脱型コンバイン「HD50型」の生産・販売を開始しました。
    「農家に喜ばれるコンバインをつくろう」というスローガンが掲げられて開発されたこのコンバインは、脱粒性の悪いジャポニカ米に適した脱穀や車体構成となっており、当時の日本の水田でも問題なく運用できました。刈取りから脱穀までの作業時間を16分の1に短縮した高能率性、小型軽量で価格も手ごろであったことから、当初予定した試験販売の目標台数を大きく上回る注文をいただき、工場で作る端から売れていきました。工場や事務所に座り込んで割当を待つ人も少なくなかったというエピソードもあるほどでした。
    このHD50型の成功を皮切りに、日本国内では自脱型コンバインが普及していくことになりました。

    HD50型コンバインの詳細はこちら

  • episode6

    ISEKI初の田植機「P4A型」

    ISEKI初の田植機「P4A型」

    各社が競って田植機の研究をする中、その研究のほとんどは成苗(普通の苗)用で実用化が困難でした。当社では1953年(昭和28年)に工場のかたわらに数坪の試験田を設け、基礎研究を開始しました。当初は成苗移植の単条式田植機に取り組み、1963年(昭和38年)からは複条式アタッチメント型に重点を移して研究を続けましたが、同様に実用化は決して容易ではありませんでした。そのような中で、本葉2~3葉前後の稚苗で田植えをすることが可能となり急速に稚苗用田植機の開発が進められます。農村でも稚苗での田植えが受け入れられる見通しになったのを機に、稚苗に対応した、当社初の田植機として1967年(昭和42年)にテイラーアタッチメント方式のひも苗4条植え田植機「P4A型」を開発、試験販売を開始しました。当時は課題も多く生産打ち切りとなりましたが、その後に開発される、2輪後傾苗タンク式“さなえ”に繋がる大きな第一歩となりました。

    P4A型田植機の詳細はこちら

  • 運搬の様子

  • 沖縄での耕うんの様子

  • 井関農機株式会社 松山技術部

  • 水冷石油エンジン

  • 当時の株式会社井関新潟製作所

  • 富士山登頂に成功したトラクタ「TB20型」

  • 世界初の量産自脱型コンバイン「HD50型」

  • ISEKI初の田植機「P4A型」

  • episode7

    海外への展開

    欧州向け耕うん機の販売

    従来の海外進出においては主にアジア諸国を対象としており、製品としては籾摺り機や精米機などが中心でした。1960年代に入ってからは、主なターゲットをヨーロッパ諸国などに拡大させ、主な製品として耕うん機・テイラーを取り扱うようになりました。1960年代後半には20~30馬力クラスのトラクタを中心に北米市場への進出を図りました。

  • episode8

    イヴァン・ベアル社と代理店契約を締結

    パリ農業博覧会の様子

    当社は昭和30年代後半から農業機械の輸出先としてEEC圏内有数の農業国として輸出戦略上の最重要市場となるフランスに着目し、パリ農業博覧会に耕うん機を出展するとともに、販路開拓に取り組んでいました。そうした中、1967年(昭和42年)に周到な事前調査と日本での調査のうえ、当社の製品を選んだイヴァン・ベアル社から商談が申し込まれ、同社との代理店契約を締結しました。
    当時の当社外国部長は、このベアル社との商談を回顧して「彼らは日仏両国市場、日本側メーカーと製品にも精通しており、これは本物だ、と思った」「他社で謝絶されて当社を訪れたこと、たまたま終業後に私や外国部員が在社していたことなどいくつかの幸運が重なった」と述べています。1966年(昭和41年)当時のフランスへの日本農機の輸出は一部の企業が数百台のティラーを出荷しているのみであったことを合わせると願ってもない大商談であったといえます。
    その後、経済環境の変化や為替、他社との競争などによる変化はありましたが、積極的な販促活動を展開した結果、輸出台数は右肩上がりに推移しました。

  • episode9

    ISEKIの田植機「さなえ」の始まり

    写真1:PF20型田植機「さなえ」、
    写真2:PF20作業風景

    1971年(昭和46年)から、田植機の代名詞ともなった二輪後傾苗タンク式「さなえ PF20」の生産を開始しました。機体の底部に設置面積のフロートを装着したフロート式超軽量田植機を新たに研究し、機体の軽量化、重心バランス、フロートの材質などの研究で試行錯誤を重ね、プラスチック製フロートを使用することによってようやく浮かすことに成功しました。担当者が喜びのあまり、テストほ場から泥まみれで事務所に駆け込み「浮いた!浮いた!」と声を張り上げ、事務所中がどっとわいた、という逸話が残っています。
    販売当初から「さなえ」は人気が高く、更に油圧制御による機体高さ自動制御機構「さなえマチック」を装備し、一気に勢いを増しました。
    また、テレビコマーシャルに、売出し中の歌手、桜田淳子さんを起用し、その美しい歌声と、出身地の秋田弁で「やっぱり、『さなえ』だべさ」のフレーズでさなえのイメージが農村の隅々まで浸透していったのです。なお、二輪後傾苗タンク式はその後の歩行型田植機のスタンダードとなりました。

    PF20型田植機の詳細はこちら

  • episode10

    創立50周年を祝う

    写真1:創立50周年記念式典の様子、
    写真2:創立50周年記念制作物

    1974年(昭和49年)12月1日に発表した長期経営方針では「当社創立50周年に当たり、先輩の偉業を受け継ぎ、さらに一層の努力を重ねて、次の50年の歴史を作るため、1975年(昭和50年)度を、ヰセキ50年の歴史を振り返り、その成果のうえに立って『新生ヰセキ発展に向かう出発の年』とする」としています。今後の目指す姿・社会的使命について、「私たちはこれまで農業労働力の軽減と省力化に貢献してきましたが、今後はこれをさらに前進させて、農家の皆さまに付加価値をもたらし、豊かな農村社会の建設に寄与しなければならない。また、世界的な食料不足時代を迎え、世界の食料安定的生産に寄与すべきであり、今後の世界で大きな役割を果たさなければならない」とし、グローバルに貢献することを明確にしました。

  • フィリピンでの耕うんの様子

  • PF20型田植機「さなえ」

  • 新生ヰセキ発展に向けて

  • TX1300での耕うんの様子

  • 旧茨城工場敷地内に中央研修所を設置

  • episode11

    井関ビジョン「新たな文化と社会づくり」に貢献

    写真1:Vision for the Future、写真2:井関ビジョン

    1987年(昭和62年)に将来の目指す姿を経営層、幹部・若手社員も交えまとめた「井関ビジョン」を発表。井関グループは変化する環境の中で、顧客に「より高い価値」を提供し、豊かな生活環境を創造することにより、「新たな文化と社会づくり」に貢献することを基本方針としました。

    ●目指す方向・・・新たな文化と社会づくり
    創業以来携わってきた農機事業を核と位置付け、以下の方向に新たな事業展開を図っていく。
    1.豊かな「食」文化の創造
     ・総合アグリビジネスのトップ企業
     ・「食」関連領域への伸展
    2.新しい地域社会の構築

    ●めざす姿勢…「ソフト・エンジニアリング」志向
    「新たな文化と社会づくり」を目指して発展するため、単に商品を作る、売るというハード的姿勢から、ライフスタイルの提案をしつつ「新たな価値」を提供するというソフト的姿勢に方向転換を図り、ソフトを核としハードも融合した、より広くより高い価値の提供を志向していく。

    ●めざす風土…「学習する」情熱集団
    本ビジョンの実現に向かって発展していくための礎は「人」であり、井関グループは人材の養成を最重点として位置付け、あらゆる努力を図っていく。そして、全員が自由な雰囲気の中で活発に提案、議論し思いを一つにして失敗を恐れず新しいことに挑戦する風土を作っていく。常に「学び」「習い」自己の成長に努め、情熱をもって新しいことに取り組む「学習する情熱集団」となることを目指す。

  • episode12

    商品用シンボルマークの決定

    写真1:商品用シンボルマーク大賞作品、
    写真2:佳作賞受賞作品他

    1993年(平成5年)ISEKIの「I」をシンボル化した商品用シンボルマークが決定しました。
    井関グループ全従業員を対象に商品用シンボルマークのデザインコンペを募集し、参加人数1062人、作品数1457点と多数の作品が集まり、その中から大賞を選定、商品用シンボルマークが決定しました。大賞に選ばれたデザインの作者加藤さんは作品の意図を「上部の楕円は『目標』を下部のsは『人』を、そして、それらを繋ぐ、『グローバルな心の輪』を表現しています。その意図は、常に、お客さまに喜んでいただける商品を生み出し、企業の発展を目指すことです。」としています。

  • episode13

    さなえ全国子ども図画コンクール

    第29回さなえ全国子ども図画コンクール

    子どもたちの農業体験の機会が減少している現状を改善しようと、小学生以下の児童・園児を対象に農業関連をテーマとした図画コンクールを開催しました。全国で開催されたこの企画は、全国22地区、計670枚の作品が出品されました。当時の武蔵野美術大学特別講師で日本クラフトデザイン協会理事を委員長に選考委員を設置し、全国最優秀賞を選出しました。
    乗用田植機発売25周年を記念して展開された「SANAEラブリー25フェア」の中のひとつの企画として開催されたこのイベントの反響は非常に大きく、「今後も継続して展開していきたい」という思いにより、現在まで毎年開催される恒例イベントとなりました。

    さなえ全国子ども図画コンクールの詳細はこちら

  • episode14

    ハードとソフトで営農提案・サポートへ「はつらつ農業応援キャンペーン」

    写真1:元気な土づくりのご提案 展示会、
    写真2:元気な土づくりのご提案 実演会

    農業を取り巻く環境が厳しい中、お客さまに活力ある営農を行っていただくために、低コスト農業などを提案する「はつらつ農業応援キャンペーン」を展開しました。具体的には、農業の基本となる「土づくり」、低コストでできる米作りに貢献する「省エネ農機」や「疎植栽培技術」などを推進することで、低コスト農業を応援するものです。また、低コスト農業の推進を加速させるため「低コスト農業応援室」を設置しました。

    [疎植栽培について]
    「疎植栽培」は、株間を広げて移植することで、田植えの際に使用する苗の量が約半分で済むため、育苗資材の苗の管理も半減、さらに田植え時の苗の運搬、補給も半分になるため効率良く作業できます。また、生育中も株元まで光や風が通るため、元気で茎が太く病気に強いだけでなく倒伏しにくい稲が育ちます。

  • 創業60周年ヰセキ全国大会の様子

  • PV100型

  • さなえ生産100万台達成、生産100万台記念ロゴ

  • 商品用シンボルマーク

  • HJ682

  • 1600kmを走破したビッグドリーム号

  • HV321

  • ラブリー63

  • ジアスAT型

  • HJ7120

  • エレ菜

  • episode15

    夢ある農業の実現へ「夢ある農業応援団!ISEKI」

    創立85周年記念大会で低コスト応援技術を展示

    創立85周年を迎えるにあたって、この節目の年を井関グループの新たな発展のためのスタートの年と位置づけ、農家の皆さまを応援する活動「夢ある農業応援団!ISEKI」を2010年(平成22年)にキックオフしました。夢ある農業応援団とは、農業を取り巻く環境が大きく変化している中、お客さまの夢ある(=儲かる)農業を実現していくように、井関グループ全社員が一体となってお客さまを応援していこうとする取り組みです。具体的には、「省エネ・低コスト」、「サービス力」の2つを基軸に、「夢ある農業応援団!ISEKI」を全社員の合言葉とし、お客さまに提案・サポートすることで食料自給率の向上にも貢献していくもので、「低コスト農機」「37株疎植栽培」などの「低コスト農業応援技術」を展開しました。

  • episode16

    グローバル展開の加速

    写真1:PT.井関インドネシア、
    写真2:ISEKI(THAILAND)CO.,Ltd.、
    写真3:生産の様子1、写真4:生産の様子2

    欧州やアジアで子会社化など海外展開を加速化させます。
    2011年(平成23年)に中国に東風井関農業機械(湖北)有限公司を設立、2012年(平成24年)にインドネシアにPT.井関インドネシアを設立、2013年(平成25年)にはタイにISEKI SALES(THAILAND)を設立しました。2014年(平成26年)にはフランスの代理店「イヴァン・ベアル社」、2020年(令和2年)にはタイの販売会社「ISTファームマシナリー社」、2022年(令和4年)にはドイツの代理店「ISEKIドイツ社」を子会社化しました。
    海外事業の歴史の詳細はこちら

  • episode17

    夢ある農業女子応援プロジェクト

    写真1:しろプチ、写真2:しろプチ開発ミーティングの様子、
    写真3:しろプチ走行の様子

    当社は、農業従事者の約4割を占める女性農業者のさらなる活躍を応援するため、2013年(平成25年)11月より農林水産省「農業女子プロジェクト」に参画し、個別プロジェクトとして「夢ある“農業女子”応援Project」を開始しました。
    具体的には、全国各地での農業機械の取り扱いセミナーや営農栽培技術等に関するオンラインセミナーの開催、写真やイラストを用いたわかりやすい農業機械の取り扱いマニュアルの作成、農業機械の開発に取り組んできました。
    農業機械の開発では、農業女子メンバーの方々と意見交換を重ねながら、2015年(平成27年)に小型トラクタ「しろプチ」、2016年(平成28年)にミニ耕うん機「ちょこプチ」、2017年(平成29年)に歩行型草刈機「プチもあ」を商品化し、女性農業者の声を織り込んだ農業機械は、“みんなにも使いやすい”と好評を得ています。農業女子の声から生まれた機能の一部は、他の農業機械にも展開されており、近年は、男女の性差やジェンダーを考慮することで革新を生み出す「ジェンダード・イノベーション」の取り組みとしても注目されています。
    これまで、「夢ある“農業女子”応援Project」に参加いただいた女性農業者は1,000名を超えました。井関グループは、持続可能な農業の実現に向け、農業の担い手としても、地域の担い手としてもご活躍される女性農業者を引き続きサポートする取り組みを実施していきます。

    夢ある“農業女子”応援Projectの詳細はこちら

  • episode18

    夢ある農業総合研究所

    写真1:夢ある農業総合研究所外観、写真2:先端営農技術展示、
    写真3:調査分析室

    当社はこれまで、夢ある農業を実現するため、疎植栽培などの低コスト栽培を中心にさまざまな提案をしてきました。一方で、農業経営の大規模化や企業の農業参入、水田フル活用による作物の転換など、日本の農業は大きく変化しています。
    今後、このような変化に対応するための提案が益々求められることから、更なる省力・低コストを目指した先端営農技術や、ICT技術を活用した先端農機の研究・実証・普及を行う「夢ある農業総合研究所」を茨城県つくばみらい市に設立しました。

  • episode19

    長期ビジョン・環境ビジョン等の策定

    写真1:環境ビジョン、写真2:NP80

    2021年(令和3年)、井関グループのありたい姿(長期ビジョン)を「『食と農と大地』のソリューションカンパニー」とし、夢ある農業と美しい景観を支え、持続可能な「食と農と大地」の未来を創造するとしました。2022年(令和4年)には環境ビジョンを策定し、2050年までにカーボンニュートラルで持続可能な社会の実現を目指すとし、サステナビリティへの取り組みを行っています。

    ●サステナビリティへの取り組み
    井関グループは「農家を過酷な労働から解放したい」という創業者の想いのもと、「『お客さまに喜ばれる製品、サービス』の提供を通じ豊かな社会の実現へ貢献する」を基本理念に掲げており、ステークホルダーの皆さまとともに持続可能な社会“食と農と大地”の実現を目指すことをサステナビリティの基本方針とし、気候変動への対応や人権の尊重、従業員への健康をはじめとするグループ全体のサステナビリティに関する取り組みを行っています。
    環境負荷低減への取り組みとして、2016年(平成28年)には可変施肥田植機を販売、2023年(令和5年)にはアイガモロボを販売、2022年(令和4年)には環境ビジョンを策定、TCFD提言への賛同など環境への取り組みを強化しています。

    サステナビリティへの取り組み詳細はこちら

  • 「アグコパートナー賞」の受賞

  • ドイツガラバオショーの様子

  • 「オンリー・アイ」ロゴマーク

  • 東風井関農業機械(湖北)有限公司

  • PT.井関インドネシア

  • 電動トラクタ走行の様子

  • 電動トラクタ内装

  • ITTC

  • 夢ある農業総合研究所

  • 可変施肥田植機

  • 第7回ロボット大賞優秀賞受賞

  • IETC

  • IGTC

  • 電動モーア